優秀賞10作品-⑩

 自殺防止の核心とは

                  柴田 修三 

 

 私達が住むこの地球上の生き物の中で、自殺の死を選択する生き物は人間だけであります。他の動物達は、自分の死が近づいていることを分かった時から、自分の意思で群から離れ、そして、単独行動で死に場所を見つけた後は静かに孤独な死を迎えるのですが、この死は、本能とその習性による死であるので自殺の死ではありません。

  それに対して人間は、生命の尊さと大切さを分かっていながら、絶望と失望の中で何んのためらいもなく、自分の生命を絶つ「自殺の死の選択」をしてしまうことに、私は、人間の弱くて悲しい業を見る思いです。

  今、私がこの「自殺の防止について」の作文を書いている間にも、この国のどこかの地で、生きてゆくことをあきらめてしまった人が、自らの意思と行動で尊い自分の生命を絶つ自殺を図っているかもしれないと思うと、真に残念無念であり、やるせない思いになるのです。

  ひとりの人間の自殺の死を大きくとらえるとしたら、それは人類の未来と希望の夢の灯が一つ消えてしまったことに等しいと思います。いつの時代も自殺の死には、肉親・縁者達のやるせない心情の涙が送り火となるのです。

  私は、この様な悲しくてやるせない思いを味合わない、味合わさせたくない「自殺の防止」を真剣に向き合ってその策を講じなければなりませんが、私はその前に「生命」と「自殺」について、諸々の思いと考えを話していきます。

  まず、はじめにテレビのニュース報道や新聞記事等で知った自殺の死で、死者の心情を知ることがないまま自殺死を看過している自分に悶々としていたある日、その悶々とした思いが払拭される教えの言葉とある先住民民族の諺に出会ったのであります。

  まず、教えの言葉とは仏様の教えの言葉です。「この人の世での一番の不孝な死は『逆縁』の死である。」の言葉です。逆縁とは、順番に反して逆の順で亡くなることです。

  教えの言葉は、優しくて単純で明快ですが、教えの本意について私なりによく考えましたところ、現代の私達社会人の自殺の死に通ずる教えです。私は逆縁がもつ意味は「人の世は順番で物事を作り、動かしていくのが大事なのだ。生命は、なおさらのことであり、自分の番がきたら死ねばよいこと。それまでは、ゆっくりと人生を楽しめばよいこと。」と言うことなのだと理解したのです。

  次に「諺」は、私の記憶では北アメリカ大陸の先住民民族アメリカ・インディアンの諺であったと思っておりますが、その諺は「人は泣いて生まれる時に、周りの人達が喜びの声を上げ、笑顔と拍手で迎えてくれるのです。死んでいく時は、周りの人達は涙を流して、泣きながら別れを惜しんで見送ってくれる。」であります。

  私は、この諺は人間の「生」と「死」のあり方を的確に表現している格言と思いました。

  その理由は、生命を自分だけの生命と思うことが、そもそも身勝手で傲慢で自惚れているということを教えてくれたのです。この了見の狭いことで自殺をすることは大間違いなのだ、生命は交流する他人との喜怒哀楽の心を共有しながらの生き方が大切であり、これが生命のあり方・存在感と思ったのです。

  そして、私は、この仏様の教えの言葉とアメリカ・インディアンの諺と私達の知識と文殊の知恵を一つに束ねて作った「生」の矛で「自殺」の盾を貫抜いて、「生きていく道」に自殺志願者を導けたらと思うのです。次に、私がなぜ、空しさと悲しみを残してゆく自殺の防止について深く考えていくようになったかの動機を話します。

  その動機となりましたのは、一件の自殺の検視と検分に立会したことであります。その一件目の事件が、40年前頃の母子無理心中の自殺なのです。

  30歳代の母親が包丁で幼い吾が娘を刺し殺した後、自分の頸部を切り裂いて絶命した二人の自殺死です。

  私は、今でもあの悲惨な母子の死の現場の光景を思い出すことがあるのですが、私には、この自殺は許せないことで、理解を示すことも、心情的な納得さえも出来ないのです。

  私は、女性が自分の生命を賭けて出産し、乳房をふくませ、慈しみながら育てている吾が子の未来ある生命を奪う無理心中の自殺は、母性愛への大罪と思うのです。残していく子への不憫な思いからか、それとも、自分の分身と思う吾が子だからか、しかし、身勝手な母性愛で未来のある子供の生命を奪う自殺は、百万遍の理由があろうとも絶対に認めることも、許すことも出来ないのです。

  次に二件目は、私の霊魂の存在を否定する信念が肯定へと覆される出来事であります。自殺者の娘さんの霊魂が、母の諭すことばに応える光景であったのです。

  死者は、彼氏の不貞の裏切りに絶望しての農薬自殺を図ったのです。検視医の先生と検分担当の私とで検視・検分を終えたのですが、まだ薄目状態の死者の両目の瞼を閉じさせることで、指の腹で数回試みたのですが、閉じさせる事ができなかったことから「仏さんはまだ、この世に未練があるらしいね」等と話していたところへ、娘さんの自殺死の知らせを受けて、駆けつけて来た母親が遺体の娘さんに「○○ちゃん、わかったで、もう許したんな…」と優しく語りかけながら、薄目状態の両目の瞼を三本の指の腹で閉じさせたところ、母親の姿を見とるかのように両瞼が閉じてしまい、二度と開けることはありませんでした。

 まさかの光景に、ア然となり、鳥肌が立ったのです。

 私は「肉体の死はあるが、霊魂は存在し死なずに生きている現実」を目の当たりにしたことで、今までの信念が肯定へと一変したのでした。

 そして、私は、母親の涙を流しながら、小さく何言かつぶやき両手の平で遺体の娘さんの髪や両頬を撫でつけている後姿に鬼子母神の絵図を見たように思ったことをよく憶えております。

  以上話しましたとおり、私は、自殺に対しての思いと考え方を自分のいろいろな体験の事実をまじえながら話してきましたが、自殺の選択とは、安らぎの死の園へのお遍路なのでしょうか。現代社会で生命の尊さを軽んじた自殺死が増加しているのは、そのお遍路が要因の一つかもしれません。

  私達は今、AI化に突き進んでいる社会に、人間の生命の尊厳について再考を促す為に「自殺の防止の対策」を根強く根気よく講じていくのですが、その講じる防止策の綱領には、現代社会の風潮が軽んじている「家庭教育」と大人達が疎んじている子供の大切な情操の砦となる「幼児教育」の二本の大木が必要なのです。

  私達が話したり聞いたりする日本語の言葉には、人を思いやる優しくて美しい日本語が沢山あります。その言葉を教えてもらい言葉の意味を学ぶ最初の道場が家庭教育なのです。

  赤ちゃんの時から、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃんが、時に触れ、折に触れ、そしてあやしながら三才になるまで優しい日本語を教えいくのがとても大切であり生命を尊ぶ大切な心の根を育てるのです。

  二つ目の「幼児教育」は家庭との二人三脚の「三つ子の魂百まで」を教育方針として遊びなかで、生命の大切さと一人で生きてはいけない心等の人格形成を三歳から五歳までに確立されるのです。

  私は、この0歳から5歳までにおいての家庭と幼児教育が、子供に対する自殺防止の第一歩の教育として根付いていくものと思っているのです。この綱領の二本の大木にはそれぞれの枝があるのです。

  一本目の枝は、高齢化社会の中心存在のおじいちゃんとおばあちゃんです。数々の人生の荒波を乗り越えてきたおじいちゃんと子供育てを立派に終えそして、雀よりもうるさい世間を渡ってきたおばあちゃんの経験と文殊の知恵で、「自殺防止の防人」として活躍していただきたいと願っているのです。

  白髪頭にハゲ頭・シワだらけの顔にゴシゴシした手等が、自殺に迷っている人には暖かいコタツや毛布に見えるのではないでしょうか。上手に話せなくても、黙って聞き耳を立てて頷いてくれるだけでも、心が暖かくなって自殺をおもいとどまるでしょう。

 もう一つの枝とは、文学の詩であります。私は、死の防止をうたう詩を調べてみましたところ、すばらしい詩と出会ったのです。
  その詩とは反戦詩と非難されていた詩人与謝野晶子作品の詩「君死にたまふこと勿れ」であります。出征する弟にどうか死なないで下さいの魂の詩なのです。詩がもつ自殺の防止への効果は、五体五感に訴えて、失われようとする尊い生命を救うのです。

  出来る事なら私は、この詩の朗読コーナーを公共交通機関の車内放送に設けて、年令を問わず不特定多数の老若男女達の耳に朗読の声が届けば、いつの日かは、大きな自殺の防止の大輪になることに夢見ているのであります。自殺の防止は「社会は一人・一人は社会」の心にあるのです。

  そして、その自殺の防止は、この地球上に人間が生きている限り永遠に講じていくのです。



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